神楽坂の歴史
神楽坂の歴史

神楽坂は、街全体が一つの山のようで、どこかしらパリの街を想像させる路地と坂の街。江戸中期、中央に位置する毘沙門天善國寺は江戸でも一、二を争う多くの参詣客が訪れました。その隆盛はとどまることなく明治となり、“山の手銀座”と呼ばれた東京一の繁華街へと変貌を遂げます。また一方で尾崎紅葉、泉鏡花、夏目漱石、金子光春などの多くの文人や、坪内逍遥や島村抱月などの演劇人に、美人画で有名な鏑木清方も居住しており、文学や芸術などの文化の香りのする独特な雰囲気も合わせもっています。昭和初期には寄席もあり、中でも「神楽坂演芸場」という寄席は、柳家金語楼が出演して名をあげた場所。また、神楽坂出身では『ゲイシャワルツ』で有名な神楽坂はん子や長唄の杵屋勝東治さんとそのご子息の若山富三郎、勝新太郎ご兄弟、花柳小菊、人間国宝の方や能楽、常盤津、長唄、新内、清元、都都逸など、伝統芸能の師匠も多く、近年では神楽坂の料亭がモデルのドラマ「拝啓 父上様」で脚光を浴び、現在でも多くの方に愛される街となっております。

神楽坂のはじまり
700年以上前の14世紀頃、群馬県赤城山南麓(現在の前橋市大胡地区)の豪族大胡氏が今の光照寺周辺の高台で社殿北側からは特に見晴らしがよい台地に牛込城を築いたのが神楽坂発展のはじまりです。現在の神楽坂通り商店街の約4分の1の地域が城を囲む石垣の郭(城の周囲にめぐらされた囲い)の中となり郭内に武器造りの職人が住み兵器庫のある兵庫町が造られました。兵庫町は現在の寺内公園辺りにあった行元寺の門前町屋とともに徳川家康の江戸入城時には新宿区で唯一 町の形をなしていた地区であったといいます。
江戸時代
江戸時代、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領した1628年頃、坂下には江戸城の外濠、牛込見附が完成し、両者をつかぐ約1kmの大老登城道が造られ、沿道は武家屋敷として地割りされ、これがほぼ現在の「神楽坂通り」です。また、矢来町の先、現在の神楽坂6丁目付近には多くの寺院が移転され、10軒もの寺が並ぶ通寺町、横寺町が形成されました。
1658年には牛込から和泉橋まで神田川が開通、現在の飯田橋駅北側の揚場町に津(湊)が開かれ軽子坂付近は多くの人と物資が行き交う場として賑わうようになります。江戸中期になると、毘沙門天(善国寺)の「寅の日」、出世稲荷の「午の日」の縁日や赤城神社の賑わいとともに江戸文化を謳歌する街となり現在の神楽坂の礎となりました。
江戸時代
明治期
明治期になると武家屋敷が撤去されて神楽坂は町人の街へと変わり、今より急で階段もあった神楽坂通りは明治10年代に緩やかな坂道に変わりましたが、路地などの街割りは現在に至るまでほぼそのまま残されており、行元寺境内から発足した花柳界など、神楽坂の文化は江戸時代からの街割りの上で育っていきました。
明治28年、甲武鉄道牛込停車場(現在の飯田橋駅)の開設を機に、商店街や住宅街として急速に発展した神楽坂。縁日は連日連夜大盛況「山の手銀座」とも呼ばれ人が歩けないほどの賑わいを見せました。この頃の神楽坂が、横寺町に居を構えていた尾崎紅葉の起こした硯友社や、坪内逍遥ら早稲田派文人の活躍の舞台ともなり、まさに商業と文化の繁栄する街となっていきました。
明治期
昭和
昭和に入り、花柳界の最盛期であり、新旧2つの見番に芸者置屋が166軒、芸妓数は619名を数えるほどになるほどに盛況します。戦中戦後を経て昭和30年代後半には花柳界は再び盛り上がり、第二の隆盛期を迎えました。高度成長期、政治家をはじめ多くの人々が料亭を利用し、花柳界を舞台に活発な活動をした時代でした。
平成~現在
そして現在、脈々と受け継がれる古典芸能や花柳界の文化、老舗の伝統に江戸のまちの面影、
さらに新たな現代的魅力を持ち合わせる「粋なお江戸の坂の町・神楽坂」は今も健在です。